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2006年6月12日 |
| 僕が、公明新聞記者として勤務することを前提に、公明党本部の職員に採用されたのは昭和50年4月です。2年間は当時、浜松町にあった東日印刷工場4階の公明新聞編集室(整理部=紙面レイアウトの部門=と校閲部が入居)に配属されました。鉛活字の活版印刷の時代です。 52年2月の人事で社会部(地方議会担当)の記者に異動しました。 記者に配属されて最初に買ったものは、取材用のカメラです。公明新聞記者は、全員、自費で購入していました。今とは違って一眼レフのカメラは、1ヶ月の給与よりも高い時代です。月賦で支払ったことが、苦しく、懐かしい思い出です。 取材に出かけるときは、公明新聞のメモ帳を、背広の内ポケットかズボンのお尻のポケットに入れて出かけます。メモを取るのはボールペンです。公明新聞では、ボールペンは30円で編集庶務から買い求めることになっていました。「替え芯は無料」でした。新品は30円です。渋いでしょう。 ワープロのない時代でしたから、原稿を書く時は、2Bの鉛筆をよく使いました。書き直しの時に、消しゴムで消すことができるから。デスクに見てもらい、直しのはいらなかった部分を切り取り、新しい原稿用紙に貼り付け、その後に続ける形で、指摘を受けた部分を書き加えたことが懐かしい思い出です。 10年くらいの間だったでしょうか。この「鉛筆も10円」で買い求めるのが、公明新聞の伝統でした。これまた、渋い話です。 インターネットなどないですから、関連資料を資料室で探し、コピーを取って机に持ち帰ります。そのコピーを取る時は、上司のサインが必要でした。 JR(当時は国鉄)の特急やタクシーを利用する場合も、事前にデスクの了解が必要でした。 党の財政を支えているのは公明新聞の購読料であり、「党員・支持者の皆様が購読料を支払って下さるからこそ公明党は存立している。そのことへの感謝の思いを忘れてはならない」と絶えず上司から聞かされていました。ボールペンや鉛筆、カメラは取材・原稿執筆に不可欠な職務上のツールでしたが、「党員・支持者の皆様が購読料を支払って下さるからこそ、職員としての自分の給与もいただける」と思っていましたから、「有料」であることを、普通に受け入れていました。 公明党の「清潔・公平・自由」(当時のスローガン)の息吹は、こうした形で、党本部職員の隅々まで行き届いていました。 この頃、公明党は竹入−矢野体制でした。僕たちは、「竹入−矢野も、党本部職員と同じ自覚の人たちだ。僕たちの代表として政界のまっただ中で戦っている」と信じていました。 その竹入が、党の資金500万円を着服横領し、日本橋の三越百貨店から自分の妻のために、1986年(昭和61年)7月10日、宝石の指輪を代金500万円で購入していたことが党内調査で判明したそうです。このため公明党は先月、竹入元委員長に対し、損害賠償550万円(弁護士費用を含む)の支払いを求める民事訴訟を東京地方裁判所に起こしました。 この記事を、公明新聞で読み、衝撃を受けました。公明新聞記者が原稿を書くための鉛筆を10円で編集庶務から購入していた頃に、竹入は、党本部会計から横領していた。少なからずショックを覚えました。怒りがこみ上げてきました。許せません。 これは「身内の恥」です。 公表すれば、本体である公明党自身にも傷がつきます。 でも、そのことを承知の上で、神崎代表率いる公明党執行部が、今、あえてこうした事実を公表したことの意味について、考えなければならないと思いました。今が、新しい公明党の出発の時だとの誓いを込めて、その自覚を議員全員、そして職員の皆さんが持つよう、公表に踏み切ったのではないかと思います。 話が少しそれますが、竹入から矢野に委員長が交代する直前の頃、僕は政治部で社労(厚生労働)担当記者でした。政審(政調)全体会議も取材していました。そのころ会議全体に漂う活気の薄さが不思議でした。矢野に委員長が交代した後も、「清新さ」は全く感じられませんでした。代わり映えしないなと思っていたら、株の事件が表面化しました。今にして思えば「魚は頭から腐る」ということだったのでしょう。担当していた社労部会長の大橋も裏切りました。 公明新聞は機関紙ですから、「公明党は頑張っている」という紙面構成でした。職員は、必死で、公明党を支えていました。公明党を宣伝しました。 ですから、他山の石とすべきは、「悪まで支えてはならない」ということだと思います。上位役職者に直言することは、いずれの世界であっても大きな勇気を必要とします。でも、公明党の場合、職員が議員をよいしょするようになれば、また、役職の低い議員が上位役職の議員を持ち上げるだけになれば、第二、第三の竹入―矢野が出現することは、必然ともいえます。 竹入―矢野の悪事を見逃してきた職員や議員もわずかながらいると思います。 その人たちは、後生のためにも、この際、「なぜ見逃したのか」その時の心境も含めて自らに問い、公表すべきでしょう。 僕は、党本部職員の時代も、議員になってからも、「党のため」を最優先してきました。「党のため」とは裏返せば「庶民のため」です。公明党の結党自体が「大企業のため、大労組のためを優先する当時の自民党、社会党」に対するカウンターパンチであったからです。政策的には「平和・福祉・教育・環境」の充実のために動くことを最優先するということです。 繰り返しになりますが、公明党自身にも傷がつくことを承知の上で、あえて竹入―矢野の不祥事を洗いざらい公表しようとしている今の公明党は、結党の原点に立ち還って「政治家改革」への警鐘を政界全体に打ち鳴らすべく、身を削っているように思えるのです。頑張ります。 |